第17回 あなたのご先祖さまはたたりますか?(2009.3)
第1回 「ウソをついたらエンマさまに舌を抜かれるゾ!」(2007.10)
先日、ぎっくり腰をやりました。
英語では「魔女の一撃」といいますが、やったことがある人ならその痛みを分かっていただけると思います。体を動かすたびに「ううッ!」とうなり声が出ます。布団に仰向けに寝られません。寝返りも打てません。お風呂上がり、パンツを履くのもやっとこさ。歩くときも腰がのびず、そろそろ歩き…。くしゃみをすると腰に痛みがズズーン!と走ります。
とにかく苦しみの数日間でした。
布団の中ですることがないものですから本を読んでいたのですが、その中にこんなことが書いてありました。
「GNPっていう言葉をご存じですか? 国の経済的規模を表すGNP(国民総生産)ではありませんよ。 … 答えは『元気で、長生き、ポックリ逝くこと』です。」
なるほどでしょ、うまいこと言いますよね。
それがいいですよねぇ。皆さんそうおっしゃいます。
でも、なかなかそうはいかないのがこの世の現実です。
元気でいられるなら長生きしたい。でも、寝たきりになっては長生きなんかしたくない。
ポックリ逝きたい。若い者の世話になりたくない。みなさんそう思っておられるのではないでしょうか。
なぜそう思うのでしょう。理由は2つあると思います。
1つは、病気になって長いこと苦しむのは嫌やということ。嫌ですよねぇ、苦しい思いをするのは。
2つ目は、人に迷惑をかけたくないという事だと思います。
1つ目の理由はわかるんです。病気で苦しい思いはできたらしたくないですもんね。これは当たり前です。ところが、2つ目。これがちょっと問題です。
人に迷惑をかけたくない、家族や回りの人の迷惑になるのがイヤ。
これはね、よーく考えないといけません。
迷惑になると考えるのは、寝たきりになると、自分が何の役にも立たない人間になってしまうと思うからです。何の役にも立たない人間は値打ちがないという考え方です。
役に立たないものはただのお荷物、だから迷惑になる。
どうでしょうか。よーく考えてみてください。
誰かの世話になるということは、世話をしてくれる人に迷惑をかけることなのでしょうか。
いろいろな檀家さんのお家にお参りし、お年寄りや病気の家族を介護する家庭を見てきましたが、世話をするのを迷惑やと思っている人はあまりいませんでしたよ。大変だというのはよくわかりましたが、それでも迷惑というのとはちょっと違いますね。
これを読んでおられる皆さんの中にも、そういうお世話をされたことがあるかもしれません。どうでしたか。世話をするのを迷惑だと思っておられました?
そんなことは考えなかったでしょう? たとえ動けなくても、何もできなくても、迷惑だなんて思わないで、一生懸命お世話されたのじゃないですか?
そういうものなんですね。いずれ自分もお世話される側になるかもしれませんが、それは順番なんです。だからその時は、安心してお世話になりましょう。
役に立つものだけが生きている値打ちがあるなんていう寂しい考え方はやめましょうね。頂いた命を頂いたままに尽くさせてもらう、いつ死んでもよし、いつまで生きてもよし、これでいきましょう。
私がぎっくり腰になったように、生きていると突然何が起きるかわかりません。
この今の自分のままがずっと続いてくれたらいいんですが、なかなかそういうわけにはいかないでしょう。
そのことがわかったら、当たり前に生きている今という時間がとっても有難いものに思えてくるのじゃないですか。大事にしないといけませんね。
毎日暮らしていると、不満に思うことや愚痴をこぼしたいこともいっぱいあるとは思いますが、今ここに恵まれている自分のいのちというものもよく見つめてください。
怪我をしたり病気になってはじめて健康の有り難さがわかるように、今まで当たり前だと思っていたことにの中に、大切なものを見つけることができるかもしれませんよ。
私のまわりに2人ほど、よく腹を立てる人がいます。
「どうしてそんなことで怒るの?」とまわりの人は困惑してしまいます。
その結果、「あの人にはなるべく近づかないでおこう」ということになって、おこりん坊のその人は、どんどん孤独になっていきます。そして、自分だけ仲間はずれだと感じ、ますます不機嫌になってしまうのです
にこにこ笑顔の人には、みんな集まりますが、不機嫌なオーラを放っている人にはだれも近づきません。自業自得というものでしょうが、本人はそのことに気がつきません。
すぐ腹を立てる人には共通点があります。
それは、「人はだれも自分と同じ考えだ」と思い込んでいることです。よく考えればそんなはずはないのですが、不思議とそう思い込んでいるのです。
だから相手が少しでも自分の意にそわないことをしたり言ったりすると腹を立てるのです。そして「自分のことをわかってくれない」と嘆きます。
基本的に、相手は自分とは考え方も価値観もちがうのです。たとえ夫婦であっても家族であってもちがうのです。
相手がしたこと、言ったことの裏側には、相手なりの考えがあってのことです。
腹を立てる前に、少しでもそのことを思ってみるべきです。
すると、「ああ、そういうことか」と納得できることも多いはずです。
別に怒らなくてもよいことで怒って、わざわざ苦しんだり、人に嫌われたりしたら損ですよ。一度しかない人生です、にこにこ笑って楽しく生きましょう。
あなたはすぐに腹を立てていませんか。
4月18日にこんなニュースを読みました。
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茨城県大洗町を拠点に活動していた暴走族の解散式が17日、水戸署で行われた。今後、津波で大きな被害を受けた同町の復興のため、がれきの後かたづけや浜辺の清掃などを行うボランティアチームとして再出発する。
解散したのは、同町の高校生など15人で構成された「全日本狂走連盟愚連隊大洗連合ミスティー」。メンバーが入れ替わりながら約30年間、同町や水戸市などで、集団でバイクを乗り回し、爆音を響かせてきた。
解散のきっかけは東日本大震災。避難所などで「敵」と思い込んできた近所の大人や警察官から「飲む水はあるのか」などと気遣われ、「暴走なんかしている場合じゃない」という気持ちが強くなったという。泥まみれになった町役場の清掃に参加するメンバーも現れた。
解散式では、暴走族の少年総長(16)が「今まで地域の人に迷惑をかけた。今後、暴走行為は行わない」などと宣誓書を読み上げた。「族旗」も水戸署大洗交番所長に手渡し、同町職員や警察官らから拍手が送られていた。総長は「これからは同じ境遇の少年たちも巻き込んでボランティアとして頑張りたい」と誓った。
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人は気づくことによって、変わります、変われます。
なにがきっかけで気づくかは人それぞれです。
あなたは大切なことに気づいたことはありますか。
気づいたときのその感動を今も持ち続けていますか。
テレビを観ていました。
津波が、家を、畑を、田んぼを、クルマを、人を、飲み込んでいく…。
衝撃的な映像に声も出ませんでした。
朝から晩まで地震被害のニュース。被災地の状況を見るにつけ、テレビを観ながら温かい食事をしている自分に「いいのか、こんなことをしていていいのか…」という思いがつのってきました。
何かしなければ…、という気持はあるものの、あまりに遠い被災地。
自分に今できることは何なのか。よくよく考えて行動したいと思います。
町会から義援金の募金の呼びかけが回ってきました。
まずはこれから…。
15年ほど前からでしょうか。お葬式の一つのかたちとして家族葬というものがあらわれました。始まりは小さな家族中心でのお葬式という意味でしたが、最近では、家族や家族みたいなつき合いのある人を中心とした葬儀という意味で使われています。そして、これまでの一般的なお葬式よりも、この家族葬でお葬式をするケースが非常に増えてきました。
家族葬をするメリットは何でしょう。
まずはお葬式にかかる費用が低くおさえられるという点があります。会葬者が少ないと食事や粗供養などの数も少なくてすみますから。そして家族や近親者だけで静かに心をこめて故人をおくることができます。大勢の会葬者に挨拶をしたり、気を遣ったりすることもいりません。
このように費用の面と人間関係のわずらわしさを避けるために家族葬が好まれるようになったのではないかと推測します。
それでは家族葬にはデメリット(欠点)はないのでしょうか。
私がよく耳にするのは「お葬式が終わってからがたいへんでした」という声です。家族葬はごく身近な人でおこなうために、今までご縁のあった人すべてに案内するわけではありません。その結果、お葬式が終わったあとで故人の死を聞いた人が「どうして知らせてくれなかったの。せめてお線香だけでもあげさせてください」ということになって訪ねて来られるのです。
そうなると来る人一人ひとりに案内をしなかったことのお詫びを言い、亡くなるまでの様子や事情を説明しなければなりません。故人が地域のお世話をしていたり、つき合いの広い人だったほど何人もの人が訪ねて来られるでしょう。四十九日がすむまでそれが続くのです。
一般的なお葬式をしていたらそういうことは一度ですんだものが、家族葬にしたことでかえってたいへんなことになるということです。
人が生きるということは、たくさんの人のお世話になったり、またその逆にお世話をしたりと、さまざまな人間関係を作っていくということです。ご縁のあった誰かが亡くなったとき、最期のお別れをしたいと思うのは人として自然な情ではないでしょうか。
お葬式に案内しなかった人が「せめてお線香だけでも」とあとで訪ねて来るかもしれないと分かった上で家族葬にするのはいいですが、大勢の会葬者がみえるのはわずらわしいから、という理由だけで家族葬を選ぶのは故人が築き上げてきた大切な人間関係をないがしろにするものかもしれません。
今年のお正月は、3日から檀家さんのご法事をお勤めしました。96歳で亡くなられたおばあちゃんの一周忌でした。去年の元日に亡くなられたのですが、いくらなんでも元日に法事というのは…ということで3日になったのでした。
20人あまりの親戚の方がお参りに来られていましたが、近頃の法事としては多いほうではないでしょうか。最近では、ほんの身内だけ、家族だけでお勤めされる場合も増えています。
法事だけではありません。お葬式も家族葬が増えてきましたし、結婚式なども招待客の数をおさえてコンパクトに済ませることも多くなってきたようです。
このような状況を見ていて感じるのは、人と人との関係がだんだんと希薄になってきているのではないかということです。あらたまった席だけではなく、ご近所づきあいなど日常の生活においても煩(わずら)わしいということで、できるだけ人とのかかわりを少なくしていこうと考える人が増えてきているのではないでしょうか。
無縁社会という言葉をご存じでしょうか。
高齢や病気になっても頼る相手がおらず、すべてを一人でやらなければならない人が増える社会のことです。
経済的には一人暮らしをするのに支障はありませんが、人づきあいがあまりなく、病気になっても誰にも知らせることなく入院し、親や兄弟に迷惑はかけられないとの思い込みから肉親に知らせることすら自ら拒む人。このような人が増えつつあるそうです。
また、亡くなったときに身元が不明であったり、遺族が引き取りを拒否する「無縁死」は年間3万2000人にも上るということです。
高齢者だけではありません。若者も人間関係がどんどん希薄になってきています。インターネットの書き込みなどは積極的に行ったりして仮想社会における存在感はあるのですが、誰かと面と向かって語り合ったり、同じ体験をするなどという直接的な繋がりをもつことには否定的で、現実社会では一人ですべてをすませてしまうのです。
今、日本はこのような無縁社会にまっしぐらに進んでいるようです。人がどんどん社会から孤立し、孤独になっていっているのです。このままさびしい社会になってしまうのでしょうか。
結婚式やお葬式や法事で、久しぶりに顔を合わせた人と喜びや悲しみを共有するということも大切なことなのではないでしょうか。私たちは、人と人との間で生活し、生きることによって、はじめて人間になるのですから。
腹が立ったこと、つらかったこと、嫌なことがあった時、あなたはそれを誰かに話してスッキリするタイプですか。それとも黙って自分の胸にしまい込んで気持がおさまるのを待つ方ですか。
私のまわりにとても怒りっぽい人が何人かいます。その人たちを見ていて、最近、気がついたことがあります。
怒りっぽい人というのは、たとえば、Aさんに嫌なことを言われて腹を立てたとします。するとそれを話を聞いてくれる人に「Aさんにこんなことを言われてとても腹が立った」と話します。たいていは、一人に話してそれでスッキリ、とはならないで、複数の人に聞いてもらうことが多いようです。自分でも誰に話したか分からなくなるくらい。
何度も同じ話をするわけですが、そのたびにまた腹立たしい気持がよみがえってきます。だからそのことが深く心に刻み込まれてしまうのですね。
そういう人は昔の嫌なことも実によく覚えています。いつ、誰に、どんな状況で、こんなことを言われた、された…。
嫌なことは早く忘れてしまえばいいのに、忘れられないのですね。いわゆる「根に持つ」というのは、こういうことではないでしょうか。
「許す」とは、「忘れること」だと聞いたことがあります。
いくら言葉で「わかった、もういいよ」と言っても、何年たってもそのことを覚えているようであれば、本当に許したことにはならないのではないでしょうか。
いつも何かに腹を立て、眉間にしわをよせて、まわりの人に煙たがられて暮らすのも一生。いつもにこにこ笑顔で、まわりの人と楽しく暮らすのも一生。
嫌なことをいつまでも覚えていていいことは一つもありません。早く忘れてしまいましょう。
嫌なことはできるだけ自分の胸の中にしまって言わないように。
うれしいことはできるだけその喜びをほかの人にも分けてあげましょう。
先日テレビを観ていましたら「女性は彼氏のこんな態度に冷める」というランキングがあり、1位になったのは「店員への横柄な態度」でした。
いくら自分に丁寧に紳士的に接してくれても、レストランなどで店員にエラそうな命令口調の彼を見ると一気に恋心が冷めてしまうのだそうです。
なるほどなぁと思いました。自分より弱い立場の人間にエラそうにする態度から、その彼の人間性がうかがい知れるということなのでしょうね。
さて今、店員さんを弱い立場の人間と表現しましたが、はたして本当にそうなのでしょうか。
「エエッ、だってお客さまは神様ですっていう言葉があるじゃん!」
こんな声が聞こえてきそうです。たしかに往年の国民的歌手、三波春夫さんがそのようにおっしゃいました。でもその発言はずいぶん誤解されて日本中に広まったようなのです。
実は、三波さんの発言の真意はこういうものだったのだそうです。
・日本の芸能の始まりは、神仏への奉納芸である。
・したがって舞台に立つ時は、神様の前で歌うのだとの神聖な気持ちになる。
・その時客席には、神様の化身としてのお客様の姿を見る。
・この神様の化身としてのお客様のお力によって、
普段とは違う自分の力が引き出され舞台に生かされる。
・だから「お客様は神様だ」と思う。
ところがこの三波さんの真意を多くの日本人は、“「お客様は神様です」とは、お客様への徹底したサービス精神が言わせたものだ”と誤解してしまいました。
そして、この誤解された関係が、舞台と客席に留まらず、一般的な社会生活にまで影響を与えるようになってしまったのです。
客はお店に行くと、お客さまは神様だから、店員は客のどんな無理難題にも対処すべきだと傍若無人なふるまいをするようになりました。
そして、この横柄な客に対して、店員は平身低頭して仕えなければならない不思議な世界が日本に現出してしまったのです。
以前、「秘密のケンミンSHOW」という番組で、大阪人が他県の人と違っているおもしろい習慣ということで、「大阪府民は買い物したあとでありがとうとお礼を言う」というのが取り上げられていました。
買い物をしたお客の方が「ありがとう」というのが大阪以外の人たちから見たらおかしいというのです。
はたしてそうでしょうか。私には、この大阪人のありがとうの精神こそが本来の姿だと思うのです。
お店がなくては、お客は買い物もできないし、食事もできないのです。そして、お客無くしてはまたお店も成り立たないのです。本来は、お客もお店もお互いさまなのです。
おたがいさま、おかげさま。
だから、店員はもちろんお客の方もありがとうと感謝するのです。
お客さまは神様です、ってどこかヘンだぞ日本人!
8月13日から15日までの3日間、お寺の本堂で盂蘭盆会(うらぼんえ)をお勤めしました。冷たい麦茶と昔なつかしい冷やしあめ、小さな子どもさんには花火のお土産を用意しました。今年も400人ほどが家族そろってお参りされました。
みんなそろって大きな声でお経をあげた後、15分ほど法話をします。その話の中で「今、自分はしあわせだなぁって思う人は手をあげてください」とたずねたところ、午前の部と午後の部をあわせて一日3回お勤めをしましたが、平均して3割ほどの人が手をあげてくださいました。
手をあげてくださった方々の顔を見ているうちにあることに気がつきました。
今、自分はしあわせだと感じている人たちには共通するところがあったのです。それは「ありがとう」と感謝のことばを普段からよく言われるということです。
「ありがとう」をよく言う人はしあわせな人だったのです。
朝、顔を洗ってタオルを手渡してもらって「ありがとう」
ごはんをよそってもらって「ありがとう」
お店で買い物をして「ありがとう」
バスやタクシーから降りるときに「ありがとう」
電車で席をゆずってもらって「ありがとう」
郵便屋さんに「ありがとう」
私たちは一人では生きられません。そのことをよくわかっている人が、恵まれた自分の状況に、自然に「ありがとう」と言うのではないでしょうか。
誰かに何かをしてもらえるしあわせを感じているからでしょう。それがたとえこちらがお金を払っていてもです。
あなたは「ありがとう」と言っていますか。
なんでもしてもらって当たり前だと思っていませんか。
「ありがとう」と言ってみましょう。いままでと違った何かが見えてくるかもしれませんね。
先日、月参りにお伺いした門徒さんのお家で宝くじの話になりました。
「買わな当たりませんけど、買うても当たりませんな」なんて。
ちなみに宝くじの当選確率はどれくらいかご存じですか。サマージャンボや年末ジャンボの場合、1ユニットで1000万枚発売されているそうです。1等は1ユニットあたり1本ですから、確率は単純に1000万分の1ということになります。
1000万分の1!!!
いかがですか。当たりそうな感じがしますか。
絶対に1等を当てたいと思うなら1000万枚買えばいいのです。1枚300円ですから30億円の購入資金が必要ですが…。
ま、当たる当たらないの議論は置いておいて、月参りに伺うとお仏壇の中に買った宝くじをお供えしている人がけっこういらっしゃいます。
「仏さま、なんとか当ててください」というお気持ちなのでしょう。
わかりますよ、その気持ち。もし1等が当たったら、家を買って、クルマを買い換えて、旅行にも行って…。夢は大きくふくらみます。
でも、ちょっと待ってください。仏さまにお願いしたら1等を当ててもらえるでしょうか。考えていただきたいのは、仏さまとはどんな方かということです。
仏さまは、人間の限りのない欲望をたたれた方です。お経には、少欲知足(しょうよくちそく)、「欲少なく足るを知る」と説かれています。足ることを知る生き方はゆたかな人生を生きることだとおっしゃるのです。
そんな仏さまが、「宝くじ1等を当ててください」という私たちの我欲を満たすような願い事をかなえてくださるでしょうか。
お仏壇にお供えされた宝くじをご覧になって、「困ったものよのう」ときっと苦笑いされていると思いますよ。
3000円で宝くじを買うなら、そのお金で大切な人とおいしいものでも食べた方がよっぽど値打ちがあるのかなと。
いかがでしょうか。
「まんまんちゃんが見てはるで!」
私たちが幼い頃、親たちからよく聞かされた言葉ですが、今、皆さんの家庭や周囲でどれほど使われているでしょうか。「そう言えば、聞いたことがあるな」「使っていたな」と、あらためて思い出される方も多いのではありませんか。
「まんまんちゃんが見てはるで」という言葉は、子どもの心や大人の心に、私たち人間からは見ることはできないけれど、常に私たちを見つめていて下さる仏さまの存在があるという、宗教的感性を育ててくれる大切な言葉だったのです。その言葉が今の日本では忘れられてしまいました。
その結果、どうなったか。人々は、お互いの視線だけを意識して生きるようになりました。他人の目につかなければ何をしてもかまわない。そんな社会状況が生れてきたのです。そこには大いなるものへの謙虚な畏怖心もありません。目に見えるものがすべてなのです。
「まんまんちゃんが見てはるで」
何ともないような言葉ですが、人の心に、そして私たちの生き方に、さらには社会全体に大きな影響を与えてきた言葉ではなかったでしょうか。
今この失われてしまった言葉をよみがえらせることが大切なことのように思えてなりません。大人も子どもも自分の心を見つめるために。
みなさんも今日から使って下さい「まんまんちゃんが見てはるで」
まずは自分にむかって言うことが大事なことかもしれません。
誰も見てないようでも、まんまんちゃんが見てはります。恥ずかしいことはできませんよね。
ちょっと考えてみてください。
「おいしいものを食べる」
「おいしくものを食べる」
この二つの文章は、「い」と「く」の一字が違うだけです。よく似たような文章ですが意味がずいぶん違います。さて、どう違うのか考えてみてください。
「今日はおいしいものでも食べようか」と言う時には、おいしい料理を出してくれるレストランでご馳走を食べたり、いつもより少し上等のお肉や新鮮な魚などを使って料理を作って食べることを想像します。お金を使ってちょっとリッチな食事をすることですね。
それに対して「おいしくものを食べる」には外食する必要も、お金を使う必要もありません。家族や親しい友達と楽しく語り合い、笑いながら食事をするだけでいいのです。お互いの笑顔が料理をおいしくしてくれるのです。
同じように「楽しい人生を生きる」ということと、「楽しく人生を生きる」ということの意味の違いを考えてみてください。
立派な家に住んで、お金がたくさんあって、健康で、いつでも好きな時に旅行に出かけられるのが「楽しい人生」だと思っていませんか。
すべての条件が揃っていないと人生は楽しく生きられないのでしょうか。
たった一文字の違いですがその差はとても大きいものです。
そこのところをよく考えて、これからの人生を「楽しく」生きたいものですね。
先日、パソコンに送られてくるメールマガジンを読んでいたらこんな一文がありました。
明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?
あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?
これは、伊坂幸太郎という作家の小説「終末のフール」の一節だそうです。さっそく調べてみました。
小説の内容は「八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する」そう予告されてから五年が過ぎた頃の日本が舞台です。当初、絶望から人々はパニックに陥り、世の中には犯罪がはびこりましたが、秩序が崩壊した混乱の世界もようやく平穏を取り戻し小康状態にあります。仙台市北部の団地「ヒルズタウン」の住民たちも同様でした。彼らは滅亡まであと三年という時間の中で人生を見つめ直します。家族の再生、新しい生命への希望、過去の恩讐。はたして終末を前にした人間にとっての幸福とは何か。今日を生きることの意味を知る物語になっています。
地球に小惑星が衝突するという予測から、人生の残りの時間を意識し始めた人々がどう生きるか死ぬかを考え描き出したストーリーです。
自分の今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方か?
なかなか厳しい問いですね。私たちの頭の中には平均寿命≠ニいうものがあって、なんとなく自分もそれくらいは生きられるだろうという気持ちがあるのではないでしょうか。でも平均寿命って私に保証されたものではないのですよね。それを忘れてはいけませんでした。
私もたまに考えるときがあります。あと1ヶ月の命しかないとしたら、何をするだろうって。
もし、あと1ヶ月の生き方が変わるのであれば、今までの生き方って何だったのでしょうね。真剣に生きてこなかったということなのでしょうか。
1ヶ月ということはないでしょうが、それでもいつかは必ず命の終わるときはやってきます。人生の残りの時間というものを意識して、今の生き方、考え方を見つめ直してみるのは大切なことかもしれませんね。ゆたかな人生を生きるために。
お正月休みもアッという間に終わってしまいましたが、お正月の風景も昔とずいぶん変わりました。私が子どもの頃は、お正月の三が日は商店街もデパートもどこも休みでした。だから初詣に行く以外はほとんどみんな家にいて家族と過ごしたものです。街を歩く人もまばらで、凧揚げをする子どもたちを公園で見かけるくらいで、ほんとにのんびりとして、ゆったり時間がながれているようでした。
今では元日から開いているお店も多く、スーパーも二日から営業していてほとんど普通の日と変わりません。繁華街は人でごったがえしていますし、のんびりした雰囲気なんてまったく感じられなくなりましたね。だからなのでしょうか、アッという間に終わってしまうのは。
お正月は来るのも早いですが、過ぎ去るのも早いですね。この調子だとこの一年もまたアッという間にすんでしまうのかもしれません。
思い出してみてください。子どもの頃はなかなか時間が経たなかったのに、大人になると一日なんてアッという間。気がつけば一週間前にみたテレビ番組が、また映ってるというぐあい。どうしてなのでしょう???
・・・なんて考えていたら教えてくれる人がありました。子どもはいつも何かを待っているのだそうです。日曜日、遠足、夏休み、運動会、誕生日、クリスマス、お正月、お気に入りのテレビ番組の放送日、楽しみにしているマンガの発売日、給食にカレーライスが出る日・・・。それに引きかえ大人は毎日がほとんど同じことのくり返し。目の前の仕事、家事に一生懸命です。
何かを楽しみに心待ちにする、そんな気持ちのあるかなしかで時間の流れ方が違うそうです。どちらが心豊かな毎日を送れるかは明らかですね。今年はささやかなことでもできるだけたくさん楽しみなことを作って、それを心待ちにしたいと思います。
さて、最後にお正月についてもう一言。お正月というと三が日をさすことが多いのですが、一月全体を正月ともいいます。一年十二ヶ月のうち、一月だけが3つの名前を持っています。一月、睦月、正月です。ほかの月は2つだけです。二月、如月。三月、弥生・・・。おもしろいですね。正月だけ特別あつかいです。
そこでVIP待遇の正月を考えてみます。正月の正の字。この「正」という字、もし漢和辞典で調べるとしたら「何ヘン」で引くと思いますか?
やさしい字ですからわざわざ辞典で引くなんてことはあまりないでしょうが、じつは「止」というヘンで引くのです。「トメヘン」です。だから"正"というのは「一に止まる」ということなのです。じゃ、一とは何か。一とは原点のことです。原点に止まる、それが正です。ということは、自分が自分の原点に立ち帰る月、それが正月です。
自分の夢は何だったのだろう。どんな人間になりたかったのだろう。何を大切にして生きていこうと思っていたのだろう・・・。
毎日の生活に追われて忘れてしまっていたことを思い出し、去年やってきたことのあやまち、失敗を反省し、同じことをくり返さないように、自分の原点に立ち帰って、自分の生き方の軌道修正をする月が正月です。
あー、ずいぶん軌道からズレちゃってるかも・・・。
今年もあと残りわずかになりました。
長かったような、アッという間だったような一年でした。思い出せばいろんなことがありました。楽しかったこと、うれしかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、くやしかったこと、がんばったこと・・・。
あなたにとってはどんな一年だったでしょうか。
「今年は最高にいい年だったなぁ」
「あまりいいことがなかった一年だったなぁ」
最高の一年を過ごせたあなたには「それはよかったですね。来年もよい年でありますように」、あまりいいことがなかったあなたには「気をおとさないで。その経験があなたをひとまわり大きく成長させるのですから」という言葉を贈りましょう。
いろいろな出来事のなかでも、人との出会いと別れはそれぞれに大きな意味を持ちますね。私たちの人生は、出会いと別れの繰り返しだと言ってもよいと思います。
出会いは別れの始まりだともよく言われます。子ども、親、夫、妻、友人との別れも避けられないものです。
どんな形で、どんな別れがきても、その人との日々がいつまでも大切に思えるような、そんな暮らし方をしたいものですね。
今年一年を振り返って、あらためてそう感じました。
先日、テレビを観ていると、今の経済社会は「美人」という言葉がキーワードとなって経済効果を高めているというようなことを言っていました。
ひらたくいうと商品名に美人という語をつければ売上が伸びるということだそうです。ほんとかなぁと半信半疑で観ていると、おもしろい実験が始まりました。
東京のあるちゃんこ料理のお店のランチメニューの人気ランキングですが、それまでは唐揚げ定食や豚肉しょうが焼き定食などが上位を占め、肝心のちゃんこ鍋定食は最下位でした。
これを何とかしようという実験でしたが、その方法がいたって簡単。「ちゃんこ鍋定食」というのを「美人鍋定食」とネーミングを変えるだけなのです。
そんなので本当に売上が伸びるの???興味津々で成り行きを見ていました。
お店の前に小さな黒板を立てて、「コラーゲンたっぷり美人鍋」と書いて実験開始。すると昨日までほとんど注文のなかったちゃんこ鍋が、中身は同じなのに美人鍋と名前を変えただけで次々とオーダーが入るのです。結果はみごとランキングトップ達成!
そういえば最近、素肌美人、指先美人、声美人、美人時計、ぬか漬け美人、美人百家、南国美人などなど、あらゆるものに美人という語が冠されています。
やっぱり「美人」は今時のキーワードなのですね。
さて、そもそも美人とはどのような人のことなのでしょう。
ひとことで言うにはむずかしいように思います。若くて顔がキレイというだけでは美人だとは言えないでしょう。それでは美人の条件とは…。
アプローチのしかたを変えて、美人の反対、いわゆる「ブス」について考えてみましょう。
宝塚音楽学校の壁には「ブスの25ヵ条」というものが貼ってあるそうです。おもしろいですね。この25ヵ条を実践すればあなたも立派なブスです。あなたはいくつ当てはまるでしょうか。
★「ブスの25ヵ条」
あなたのブス度はどのくらいだったでしょうか。女性だけではありませんよ、男性もです。というか、人間としてですね。
…なんだか見えてきましたね。美人とは見た目がキレイなだけの人のことではなく、人間として「すばらしい人」のことのようです。つまり、この25ヵ条の反対のことを実践している人が美人だということになりそうですね。
さて「ブスの25ヵ条」さっそくトイレにでも貼っておこうかな。
ワークシェアリング(work sharing)とは、労働時間の短縮や、残業の削減、休日の増加などによって総量の決まった仕事をできるだけ多くの人に分かち合うことをいいます。不景気な世の中で、できるだけ解雇者を出すまいとする企業の工夫ですね。
カーシェアリング(car sharing)とは、環境問題や交通渋滞を解決する一つの方策として、相乗りしたりして車を他人同士で共有することです。
どちらも現代社会の問題をなんとか解決しようと考え出された方法です。キーワードは「分け合う」です。
分け合う…、なんだか心がホッとするあたたかい言葉だと思いませんか。
嬉しさを2倍に出来る半分こ
(41歳主婦)
あるお寺の掲示板に書かれていた言葉です。
この川柳(?)の作者はきっと子どもの頃に、自分もきょうだいや仲のいい友だちとお菓子か何かを半分こして食べた時の楽しかったこと、うれしかったこと、美味しかったことを思い出したのでしょう。
私も子どもの頃、おやつのお菓子などを妹たちとよく分け合いました。
当時は、今のように選ぶのにどれにしようか迷うほどお菓子の種類なんてありませんでしたし、いつもいつもお菓子があるなんてこともありませんでした。
そんな中で子どもにとって最高のあこがれのおやつといえば、苺のショートケーキでした。真っ白なクリームの上にちょこんと真っ赤な苺がのっているケーキの絵を、どんな子どももよく描いていたと思います。
実際、ショートケーキなんて一年に数えるほどしか口に入らない高級なおやつでした。ですから、たまーにお客さんのお土産なんかでいただくと「やったー!」と大喜びしたものです。でも、なかなか私たちきょうだい全員が満足するほどのケーキはありませんでした。ですから分け合ったのです。
うまく分けることができればいいのですが、あっちが大きい、いやこっちが大きい、とワイワイ言いながら親に分けてもらったのを思い出します。そして分け合ったケーキをみんなで食べるときのうれしさと美味しさ!
昔はよくしましたね、半分こ。あなたもしましたか?
美味しいけれど少ししかないものを、誰かと分け合って食べると格別な味がすると思いませんか。
今では何でも一人に一人前ずつあるので分け合うということをしなくなりました。世の中が豊かになったおかげです。
ただ、いつでも一人前のケーキを一人で食べられるようにはなりましたが、半分こして食べるよろこびは味わえなくなってしまったのかもしれません。
はてさてどちらがいいのやら。
でも、これからの社会、「分け合う」というあたたかさを感じさせる言葉がいろいろな意味で大切になってくるのではないでしょうか。
今年の夏は短かったですね。
8月に入っても梅雨が明けず、ギラギラと太陽が照りつけるような、これぞ夏!という日が3週間もあったかどうか。日照不足で実りの秋が心配です。
さて、そんな今年の夏でしだが、熱く長かったのは衆議院選挙でした。いえ、選挙は一日ですね。長かったのは衆議院解散から投票日までの期間でした。
毎日、朝から晩までテレビは各政党の代表者を集め、それぞれの政策について討論する様子を放送していました。そんな番組を見ていて感じたことがあります。
みんな自分の主張を声高に叫ぶばかりで、相手の話を聞かない
相手が発言していても終わりまで話を聞かずに自分の意見を言う。討論になっていないのです。もっと謙虚に相手の意見に耳を傾けることができれば、もっと効率的な、もっと建設的な話し合いになるのになと思いました。こんな調子で、本当に国民の声を聴いた政治をやってくれるのか不安になります。
そんなことを感じていたところ次のような言葉に出会いました。
しっかり聞く
じっくり聞く
正確に聞く
素直に聞く
そして
心に聞くまで聞きぬけ
(松倉信乗著『朝のことば』)
まずは、相手の目を見つめて、しっかりと、じっくりと、素直な気持ちで相手の言葉に耳を傾けること。スタートはここからです。そのうえで自分はどのように考えているのかを伝える。
家庭でもビジネスでも恋人同士でも、それがいちばん大切なことなのではないでしょうか。
多くの人が、自己主張することばかりに気をとられているように見受けられる昨今、「言う」ことと同等に、「聞く」ことも忘れてはならないと感じた今年の夏でした。
梅雨の季節も終わりに近づき、もうそこまで暑い夏がきています。
今年もここ数年の梅雨とおなじようにゲリラ豪雨が被害の爪あとを残していきました。洪水や土砂災害で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
梅雨といえば、ほんの30年ほど前まで、しとしと降り続く雨がまぶしい陽ざしが照りつける夏の到来を準備する期間でした。田植えのための恵みの雨であり、暑い夏を乗り切るための水瓶をいっぱいにしてくれるいのちの雨でもありました。
それがいつの頃からか、ほとんど雨が降らない空梅雨だったり、局地的な豪雨をもたらすものに変化してしまいました。異常気象という言葉が一時さかんに言われましたが、いつのまにか異常が通常になってしまい、私たちの感覚もマヒしてしまったかのようです。地球環境がおかしくなってきていることの現れかもしれないと思うと恐い気がします。
さて、タイトルの「雨の日には…」です。
私は毎日原付バイクで檀家さんのお家へ月命日のお参りに行っています。
当然、晴れの日ばかりではなく雨の日だってあります。雨の日にはカッパを着て、長靴を履きます。冬は寒いし、夏はとんでもなく暑いです。だから雨の日は嫌いなのです。朝、目がさめて雨の音が聞こえると「うわぁ、雨か…」って一気にテンションが下がってしまいます。
でも、ある時、魔法の言葉に出会いました。
「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」
相田みつをさんという書家の言葉です。
この言葉を初めて目にしたとき、「あぁ、そうか。嫌がってばかりいずに、こんな日もあるさと、ありのままを受けいれたらラクになるかも」と思いました。
以来、雨の日がそんなに苦にはならなくなりました。雨の日は街中のホコリが洗い流され、しっとりとなったようで気分も落ち着きます。そう思うと雨の日もまんざらではない気がします。
もちろん相田さんはお天気のことばかりを言っているわけではありません。私たちの人生のうえでの「雨の日、風の日」のことを語っているのです。
人生ではいつもいつも順調に事が運ぶ「晴れの日」ばかりではありません。大きな挫折を味わう「雨の日」、苦い思いをする「風の日」がかならずあります。
そんな日はどうするか。
「こんな日もあるさ」と目の前のことから逃げ出さず、雨の中を、傘をさして歩いて行けばいいのです。風の中を、襟を立ててしっかりと前に進めばいいのです。
「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」
元気がでる魔法の言葉です。
仏教では地獄が説かれます。あなたはどう思われますか。
いわく、地獄に堕ちた人間はくし刺しされて火で焼かれる、とか…
そんなおとぎ話のようなことを信じろといわれても信じられない?
ではちょっと考えてみてください。
私たちのキッチンでは、毎日地獄以上のことが行われているのではありませんか。
え? なんのこと?
料理のことです。
人間に食べられる魚や貝やエビの身になって考えてみてください。
活魚料理といわれ刺身にされたり、くし刺しにされ姿焼きだと食べられる魚。
生きたままで炊かれたり焼かれたりするアサリやシジミ。踊り食いとよばれて
生きたまま食べられるエビ。
とくに生きてピクピクするのを喜んで、「やっぱり活きのいいのにかぎる」なんて言いながら食べる人間は、魚や貝やエビから見れば鬼以上ではないでしょうか。きっと私たちのキッチンを地獄だと思っているにちがいありません。
そんなことをしている私たちが、人間をくし刺しにして焼くような地獄がないと言えるでしょうか。海の中しか知らない魚や貝やエビも、まさか自分たちが人間のキッチンに連れてこられ、ヒドイ目に遭うなんて夢にも思っていなかったはずです。
それを思うとひょっとしたら私たちだって、いつか逆の立場になって、焼かれたり切りきざまれて食べられることになるかもしれません。
日々地獄の鬼のようなことをしている私たちが「地獄はない」と言うのは、あまりにも身勝手な言い分かもしれませんね。
…さて、どんな気持ちで食べ物をいただきましょうか。
以前、「レタスクラブ」という雑誌にこんな素敵な言葉が載っていました。
ハッピーな人の周りには、
いつでもその人らしい風が吹いていて、
周囲に幸せな空気が広がっていく。
種類も形も違えど、
きっと誰もが持っている幸せの種。
(川畑洋子さん)
私の年上の友人にとても素敵なひとがいます。そのひとが現れるとパッと場が明るくなり、春風のようにふんわりと周りにいるすべての人をつつんでくれます。やさしい眼差しとあたたかな言葉でみんなを幸せな気分にさせてくれる素敵な女性です。そのひとの笑顔に会いたい、やわらかな声を聞きたい、とみんながあつまってきます。
私もそのひとと会って話をするのが大好きです。こちらまで幸せな気分になってくるからです。
ハッピーな人の周りには、
いつでもその人らしい風が吹いていて、
周囲に幸せな空気が広がっていく。
この言葉の通りのひとです。
でもこのひとがハッピーなのは何不自由のない恵まれた生活をしているからというわけではありません。むしろ数年前から原因不明の病気にかかり、髪が全部抜けてしまい、からだが冷えて節々が痛むというような状態が続いています。
そのような中にあっても、自分の不健康をなげくより病気とうまく付き合い、今できることを精いっぱい楽しむという前向きな生活をしておられます。
種類も形も違えど、
きっと誰もが持っている幸せの種。
私たちはそれぞれにいろいろな悩みや問題をかかえて生きています。そんな中でも探せばきっと幸せはあるのですね。気がつくか、つかないかということなのでしょう。
悩みや問題にばかり焦点をあてて、自分の不幸をなげいて生きてゆきますか。
それともちょっとした幸せをよろこびながら生きてゆきますか。
さきほどの女性の生き方のバックボーンにあるのはお釈迦さまの教えです。
今ここに恵まれたいのちを精いっぱい生きる。
あらゆるものや人のおかげで生かされて生きている。
すべてはおかげさま。
考え方も生き方も素晴らしいひとです。美しいひとです。
私もそんな生き方をしたいと思う人生のお手本です。
さて、私の周りにはどんな風が吹いているのでしょう。
あなたの周りにはどんな風が吹いていますか?
「ふにょい」という言葉が最近よく頭をよぎります。
テレビのニュースを見ていると、あまりに身勝手な理由の犯罪が多いからです。
ふにょいというのは、ため息の声でも、何かの掛け声でもありません。漢字では「不如意」と書きます。仏教の言葉です。思うようにはならない、という意味で私たちの現実をあらわしています。
私たちが生きていく上で、自分の思い通りにならないことはそれこそ山のようにあります。思い通りにならないことに、どこかで折り合いをつけながら生きていかなければならないのが私たちの現実です。
たとえば人間関係。上司が自分をわかってくれない。部下が思うように動いてくれない。夫が、妻が、子どもが自分の言うことをきいてくれない。好きな人に自分の気持ちがつたわらない。
ほかにも、希望の会社に就職できない。仕事がうまくいかない。リストラされた。会社が倒産した。一所懸命勉強したのに入学試験に落ちた。ずっと健康に気をつけていたのに病気になったなど…。
あらゆることが自分の思い通りになったら、どんなに楽しいでしょう。ストレスもゼロ。バラ色の人生です。でも、そんなことはあり得ないのが現実のすがたです。
人はそれぞれ考え方も価値観も生き方もちがうものです。だから私の考えがすべて相手に受けいれられるとはかぎりません。そして何でも自分の都合のいいようにものごとは運んでくれません。思いもかけないことが起きたり、挫折をしたり…。
お釈迦さまの教えは、仏さまに手を合わせて一心に祈ったら、私の願望がかなえられるというものではありません。むしろ逆にこの世の中は自分の思い通りにはならないものだということを教えてくださっているのです。
私たちはその真実を受けいれた上で、与えられた環境、条件の中で精一杯のことをする。そうすることによってのみ、苦しみや悩みを乗り越えてゆくことができるのではないでしょうか。
亡くなった方は私にお釈迦さまの教えに出遇うご縁を結んでくださったのです。どうかそのご縁を大切にしてください。そして人生は決して自分の思い通りになることばかりではないというお経に書かれているこの世の真実の相(すがた)を受けとめて、自分のこれまでの考え方や生きかたを一度立ち止まって考えてみてください。何かがかわるかもしれませんよ。
先日23年ぶりに、私が会社に勤めていた頃の後輩に会う機会がありました。
年賀状のやり取りだけは続いていたのですが、お互い忙しくてなかなか会うチャンスがありませんでした。
昨年、後輩から「母が亡くなりました」との年賀欠礼の葉書が届いたのでお見舞いの電話をしたのがきっかけで、時々電話で話をするようになり、先日の再会となったのでした。
お互い若かりし頃の面影は無惨にもなくなり、待ち合わせ場所で出会ったもののしばらくの間わからないという状態。げに恐ろしきは時のうつろいとしみじみと感じた次第です。
喫茶店でコーヒーを飲みながら近況を報告し合い、つもる話にあっという間に時が過ぎてゆきました。そんな中で、昨年10月の妻の入院・手術、年末の母の骨折、私の声帯の手術の話をすると後輩は冗談まじりに「お祓いをしてもらったほうがいいんじゃないですか」と言いました。
もちろん後輩は、私が僧侶であることを知っていますから、まったくの冗談だったのですが、世間にはいろいろなことを言う困った人がいます。たとえばこんなことです。
「あなたやあなたの家族が病気やケガばかりしているのは、何代か前のご先祖に不幸な死に方をした人がいて、その人の霊がたたっているのだ」
そんなことはないと思っていても、本当に病気やケガばかり続いたら、「ひょっとするとそうかもしれない」と考えてしまうのが私たちの弱いところです。
でも、冷静に考えてみましょうか。たとえば私のご先祖さまです(あなたも同じなのですが)。私の両親は2人です。その両親にまた両親がいます。つまり、おじいちゃんとおばあちゃん、合わせて4人です。そのまた両親を数えると8人になりました。
3代さかのぼると8人、4代だと16人、5代前になると32人、6代前だと64人にもなります。さて、これだけの人がいたら一人や二人、不幸な死に方をした人がいても不思議ではありませんよね。いかがですか。
「先祖がたたる」と言う人は、自分自身が自分のご先祖さまをたたるような恐い存在にしてしまっている気の毒な人です。ご先祖さまのことを、自分に「いのち」のバトンを伝えてくださった尊い方々とは思うことのできないかわいそうな人なのです。
あなたがもし不幸な死に方をしたとしたら、自分の子孫にたたってやろうと思いますか?私だったらたとえどんな不幸な死に方をしたとしても、自分の子孫を見まもってやりたいとは思っても、決してたたってやろうなどとは考えません。
どんな死に方をしたご先祖さまであっても、私に「いのち」を伝え、また、自分の身をもってお釈迦さまが説かれた生・老・病・死の四苦という人生の現実を教えてくださった尊い仏さまなのです。
ご先祖さまを、たたるような恐い存在にしてしまうか、尊い仏さまとして手を合わせていくかは私たち次第なのです。
さて、あなたのご先祖さまはたたりますか?
テレビをあまり観なくなりました。
おもしろくないのです。
どのチャンネルをつけても、同じような番組ばかりです。
その原因は、たとえばどこかのテレビ局がクイズ番組を放送し、それが好評で視聴率が高ければ、ほかのテレビ局もいっせいにクイズ番組を放送するようになるからです。
視聴率が稼げるのならと安易によその局の真似をする。その結果、よく似た番組ばかりが放送されるという事になるのです。
同じような番組ばかりだと視聴者もすぐにあきてしまいます。結局、共倒れになって視聴率低下につながってしまいます。
あの局がクイズ番組であてたのなら、ウチは人の心を揺さぶるような感動ドキュメンタリーで勝負しよう!っていうふうに思わないのでしょうか。
テレビだけではありません。
最近、自分の頭で考える、工夫する、といった事がだんだんとなくなってきているように感じます。
何にでもマニュアルが存在し、それにしたがっていれば効率よく物事がはこぶシステムに私たちが慣れすぎてしまったからかもしれません。
私は学生時代、某ファーストフード店でアルバイトをしていましたが、あらゆるものがマニュアル化されていました。接客の方法から、ハンバーガーの焼き方まで。マニュアルさえ覚えれば、誰にでもできるようになっていました。
確かに効率的ではありますが、自分の頭で考えることはなくなってしまいます。だから、一人でハンバーガーを10個買いに来たお客さんに対して
「こちらでお召し上がりですか」
なんていうあり得ない質問をする店員が出てくるのです。
まぁ、その店員が大食い番組のファンなら、一人で10個食べるかも、と考えるかもしれませんが・・・・。
今は百年に一度の大不況だと言われています。
こんな時代だからこそ、自分の頭で考え、知恵をふりしぼって生き抜いていかなければなりません。マニュアル通りにしている場合ではないのです。
でも、みんなが自分の頭で考えることのない今は、見方をかえれば最大のチャンスかもしれませんね。
世間ではお坊さんといえば、健康で長生きするものという思い込みがあるようです。その根拠は、毎日ほとけさまに手をあわせているから。
私は毎日50ccのバイクにまたがって、東へ西へと月参りに走りまわっています。20年の間に自動車と衝突したことが3度。救急車にも1度乗りました。
幸い、骨折ていどの怪我ですみましたが、そのことを話すと「やっぱりほとけさまが守ってくださっているから、そのくらいの怪我ですんだのですよ」と言われます。
いや、ホントに守ってくださっているのなら、そもそも事故に遭わないようにしてくださいますって。いくらほとけさまに手を合わせているからといっても、自分か相手のどちらかが不注意だったり、ムチャな運転をすれば事故につながるのです。
私は8年前、突然声が出なくなり読経ができなくなってしまいました。そこであちこちの病院の耳鼻科をまわったところ、声帯のまわりにある筋肉が、肩こりのようにこっていて、声帯を締めつけているので声が出にくくなっているのだということが分かりました。
声が出なくなった理由はわかったものの、根本的にそれを治す治療法がないということでした。そこでしかたなく対症療法として筋弛緩剤を飲んで、こっている筋肉をやわらげることになりました。
そうして8年間、喉をだましだましお経を唱えてきたのです。
ところが昨年、診察を受けたときに主治医の先生が「手術で治す方法が確立されたので、手術してみませんか」とおっしゃいました。私は、あぁこれで8年間の苦しみから解放されると思い「ぜひ、お願いします!」と言いました。
年末、12月27日に手術を受け、大晦日に退院しました。今は声を出すリハビリにはげんでいます。まだ、森進一さんよりもハスキーな声しか出ません。読経できるのはまだまだ先のようです。
お釈迦さまは、生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)が人間の根本的な苦であるとおっしゃいました。
老は、老いて若いときのようには頭も体もはたらかなくなること。
病は、健康でありたいといくら願っても病気になるときにはなるということ。
死は、どんな人でも命には限りがあって死にたくなくても最後は死んでいかねばならないということ。
そして生は、この世に生れた瞬間からもっとも嫌な死にむかって生きなければならないということです。
この生老病死を四苦といいますが、人間はひとしくみんなこの四苦に悩み苦しみます。この苦しみに出会ったときに、どのようにそれを受けとめ、考え、乗り越えて生きてゆくかを教えてくれるのが、お釈迦さまの教えなのです。
なんとかしてこの四苦をさけよう、お経を唱えてさけようとしても、それはかないません。人間として生れたかぎりは、この四苦を真正面から受けとめながら自分の人生を生き抜かなければならないのです。
そのためには、お釈迦さまの教えをよく聞かせていただくことです。
お坊さんだからといって、特別扱いはしてくれません。
お坊さんも人間ですからね。
10月10日のお昼の2時から翌朝11日の7時まで17時間、病院の長椅子に私は座っていました。
10日の朝、若坊守(浄土真宗のお寺の奥さんのことを坊守、お嫁さんを若坊守といいます。つまり私の妻のことです)が立ちくらみがひどく歩けなくなり、私の母が病院へ付き添って行きました。検査の結果、極度の貧血で、ショック死してもおかしくない状態とのことで、即入院、輸血をし、緊急の手術をすることになりました。
その日は長くかかるオペの患者さんが2人もいて、手術室が空くのを待って、夜の10時から7時間もかかる大手術をしました。手術が終わったのが朝の5時で、麻酔からさめたのが6時、それからICU(集中治療室)で5分間の面会ができたのが6時半でした。
無事手術が終わって家にもどったのが7時。久しぶりの徹夜でした。
3時間ほど仮眠をとって、昼からまた病院へ子どもたちを連れて5分間の面会に行き、その後、夕食のおかずを作ったり、雑用をしたり、大変な2日間でした。
夕食後はさすがに疲れて、横になって少し休憩と思いテレビを見ていましたが、気がついたら夜の9時すぎ。知らない間にウトウトしてしまったようです。
なかなか疲れがとれなくなったのは、やっぱり年のせい…?
あー、人生、いつ何があるかわかりませんね。
今回、痛切に感じたのは、お医者さんや看護師さんの大変さです。
若坊守の手術は緊急手術でした。夜の10時から始まりましたが、執刀してくださる外科の先生、麻酔科の先生、担当の内科の先生、看護師の方々は、みなさん朝からずっと働いておられるんですよね。なのに若坊守のために、ずっと立ちっぱなしで、朝の5時まで徹夜で手術をして下さいました。
待合室でただ長椅子に座って待っているだけの私でさえ、あんなに疲れたのに、執刀して下さった先生や手術に立ち会って下さった先生、看護師さん方の疲れはいかばかりかと本当に感謝せずにはおれませんでした。
最近、医師を相手どって裁判を起こすケースが増えていますが、明らかな医療ミスは人命に関わることとして裁判もやむをえないと思いますが、必死に命を守ろうとしてくださる医師や看護師のみなさんは、決して手抜きなどしていないのです。
むしろ自分の体を削って患者のために力を尽くしてくださっているのだと感じました。
手術が終わったあとの先生方の疲れ切った表情を見て、思わず頭がさがりました。
あらためて医師という仕事に対して、尊敬と感謝の念を持ちました。素晴らしい仕事だと思います。
一部、不心得者の医者がいることも事実ですが、現場で働いておられる先生方はほとんどが尊敬に値する方たちだと思います。
若坊守は手術後、少し元気になったころ、普通に元気で体を動かせることがどんなに幸せなことか思い知ったと言っていました。人生観が変わるかも、とも。
病気になることはマイナスだけではなく、いろんな「気づき」があるのですね。
それが人生とってプラスになればいいと思います。
健康がなによりだということは確かですが、病気にならなければ分からないことだってありますよね。
病気=不幸 ではないことに気がつかなければならないのでしょう。
病気の人にも人生があり、目標があり、夢があります。そして、病の中で幸せを感じている人もいるのです。
健康な人には、それが見えにくくなってしまっているのでしょうね。病気の人を気の毒にと哀れみの目で見るのは失礼な事だと気がつきました。
「しあわせはいつも自分のこころがきめる」
相田みつをさんの言葉ですが、心に染みる言葉です。
私は、こう見えて(どうもこうも、お前の顔なんか見たことないわい…なんていうツッコミはどうぞご遠慮ください)スーパーへ買い物によく行きます。
何を買うかといいますと、お酒のおつまみがダントツに多いのですが…。
ま、それはおいといて、買い物をすませレジに並んでいると「レジ袋がご不要の方はこのカードを買い物カゴにお入れください」と書いた紙が貼ってあり、「レジ袋不要」と書いたカードが置いてあります。
見ていると5、6人にひとりくらいの方がそのカードを買い物カゴの中に入れているようです。そして買ったものを「マイバッグ」に入れてさっそうと帰られます。
地球環境のために、少しでもゴミを減らして環境にやさしく…と思ってそうしておられるのだと思います。立派なことです。
テレビなどのマスコミも「エコ、エコ」と、さかんにアピールし、いかにしてゴミを減らすかということを訴えています。
もちろんそれに対して反対するわけではありません。地球環境のことを考えたらゴミは少ないにこしたことはありません。
ただ、アマノジャクの私はついつい考えてしまうのです。
本当にスーパーのレジ袋をみんながもらわないようにすればゴミは減るのだろうか…。レジ袋ってムダなもの…?
私は、スーパーでもらったレジ袋を小さなごみ箱用の袋として再利用しています。みなさんはいかがですか。そうしてはいませんか。
もし、スーパーで買い物をしてレジ袋をもらわなければ、きっと新たにごみ箱用の袋を購入するのではないでしょうか。
レジ袋をもらわない代わりに、ごみ箱用の袋を買う。
これはムジュンですね。っていうか、ムダです。
一見エコな生活をしているようで、実はエコになっていません。
なぜこうなったのかというと、ものの本質を見抜いていないからです。
レジ袋をもらわないことが、ゴミの削減にストレートにはつながらないのです。本当にゴミを減らして環境のことを考えるなら、レジ袋そのものを、たとえば燃やしても有害なガスが発生しないような素材で作るようにするとか、日光や微生物によって時間がたてば自然に分解されてしまうようなものにするとかしないといけないでしょう。
それを実現するために、私たち消費者の一人ひとりが声を出して、企業にはたらきかけていくことが本当の環境対策です。
なんでもそうですが、大切なものには目に見えるものと見えないものがあります。その見えない大切なものを考えることが実は重要なことであり、えてして見えないものの中により大切なものが隠されていることが多いものです。
目先のことで満足するのではなく、物事の本質を見抜く目をやしなうことが大切だと思うのです。それにはふだんから別の角度から物事を見るクセをつけておくのがよいでしょう。頭の体操にもなりますし。
そのためには…
さあ、みんなでアマノジャクになりましょう!
毎日、月命日に檀家さんのお家にお参りします。
読経のあと、お茶をいただきながらいろいろな話題でお家の方とお話しするのですが、帰ってきたあと、ふと感じることがあります。
「今日はなんだか疲れたなぁ…」
そうです。話をしていると相手によってすごく疲れることがあります。
そういうことってありません?
気持ちよく会話ができる人と、会話したあと疲れる人。
このちがいは何なのでしょう。
考えてみました。
あなたも一度、どなたかとの会話を思い出して考えてみてください。
すると分かったことがあります。
会話していて疲れる人に共通すること…。
それはこちらの話を最後まで聞かずに、自分がしゃべりだす人。
いらっしゃいますよね、こういう人。
こちらの話を半分しか聞いていないので、話がうまくかみ合いません。
「だからそうじゃなくって…」と、また説明し直さないといけないのです。
こういう人は会話をしていると疲れますね。
それに対して、気持ちよく会話ができる人はこちらの言うことを最後まできちんと聞いて、それから自分の考えを話す人です。
こんな相手だと会話のキャッチボールができるのです。だから話もはずみ、あー楽しかった!となるのですね。
最近、人の話はろくに聞かないで、自分のことばかり話したがる人が増えたように思います。私の気のせいでしょうか。
近くにある鏡で一度ご自分の顔をご覧ください。
私たちの顔には耳がふたつと口がひとつついています。なかなか深い意味があるように思いませんか。
「口で話すより2倍、耳で聞け」ということではないのかなぁ…と。
こじつけかもしれませんが、間違いなくその方が謙虚になれますし、相手から得るところも多いのではないでしょうか。
相手の言うことをまずよく聞くこと。
ここから良い人間関係が始まるのです。
8月は「お盆」の月です。
ご先祖さまや亡くなった方を偲んでお墓参りをされる方も多いと思います。
テレビのニュースなどでも毎年きまって、お墓に手を合わせている家族の映像を流して「ご先祖の霊をなぐさめていました…」などとキャスターがコメントするのを聞きます。
世間でも「お盆には、地獄の釜のフタが開いて、ご先祖さまが帰って来られる」なんていうことも言われます。
聞き流してしまうと何でもないことなのですが、お坊さんである私としては、ひっかかってしまうのです。
みなさん、考えてみてください。
みなさんのご先祖さまや、亡くなってしまった大切な人は、生きている私たちが「なぐさめてあげなければならないような存在」になってしまったのですか?
地獄の釜のフタが開いて帰って来られるということは、あなたの大切な方は地獄におちてしまわれたのですか?
亡くなった方は私たちに「人間はいつかかならず死を迎えなければならない存在なのだよ。だから今めぐまれて生かされているその“いのち”を精一杯大切にして生きるのだよ」と、みずからの命でもって教えてくださった尊い方だと私は思うのです。
だからこそ、手を合わせて感謝の気持ちで拝むのではないでしょうか。
それと、もうひとつ。
お墓の中に亡くなった方が眠っておられるのではありません。
お骨はあくまでも、その方を偲ぶよりどころです。墓石の下の真っ暗で小さな穴の中でじっと眠っておられるのではないのです。
仏教は目覚めの教えです。真理に目覚めるということです。眠るのではなくて目覚めるのです。
何に?
すべてのかたちあるものは、つねに変化していくという真理です。仏教では諸行無常といいます。
赤ちゃんが成長するのも諸行無常、青年がお年寄りになるのも諸行無常、病気になるのも諸行無常、病気が治るのも諸行無常…。
つねに移り変わっていくのがこの世のすがたなのですから、今、この瞬間を精一杯、悔いなく生きることが充実した人生を築いていくことになるのです。
そんな大切なことを教えてくださったのが亡くなった方、仏さまなのです。
先日、ギックリ腰になりました。
なった人には分かりますが、なったことがない人には、このつらさはきっと分からないだろうと思います。座っても痛い、寝ていても痛い、歩こうとするとネアンデルタール人のようになる…。とにかく何をしても痛いのです。
そんな時にお葬式ができました。しかたがないので痛みをこらえ、何事もないかのような顔をしてお勤めをしました。とってもつらかったです。
思い出してみれば、こういうことってけっこうあるんですよね。インフルエンザにかかって38度5分も熱があるのに、雪が降る中お通夜にお参りしたこと。急性胃腸炎になり下痢が止まらないまま「トイレに行きたくなったらどうしよう…」と不安いっぱいでお通夜にお参りしたこと。思い出せばキリがありません。
お坊さんも生身のからだですからケガもしますし病気にもなるんですよ。
ところで、月参りにおうかがいし読経した後、お茶をいただきながら世間話をしていると、よく「やっぱり健康がいちばんですねぇ。人間、健康やなかったらあきませんわ」という言葉を聞くことがあります。
本当にそうでしょうか…?
私たちは健康でなかったら、しあわせにはなれないのでしょうか。
もしそうなら、私たちのうちのほとんどの人はしあわせにはなれないでしょう。
なぜなら人間は病気になるものだからです。若いうちは体力や免疫力があって病気にはなりにくいかもしれませんが、年をとって身体がおとろえてくるとほとんどの人がどこかしら身体に悪いところをかかえるものなのです。
それが人間の真実のすがたなのです。
だから、お釈迦さまは、病気になったら、その病気になった事実を受け入れて、その中でしあわせを見つけなさいとおっしゃっておられます。
病気になって初めて、人の温かさに気がついたとおっしゃる方もあるでしょう。家族のやさしさに感謝の気持ちを持たれた方もあるでしょう。
病気になってみないと分からないしあわせというものもあるのです。
健康であるにこしたことはありません。できれば病気になんかならなくていいのです。でも、いつか私たちは病気になることがあるのです。そして、その病気が治るか治らないか…治る時には治るでしょうが、治らない時には治りません。
それが事実です。いくら仏さまに手を合わせてたのんでみても、治らない時には治らないのですよ。そのことを決して忘れないでください。
病気になった自分をなげいて、不平不満を言い、愚痴ばかりこぼしてふしあわせに生きるのか、それとも、病気になったことでいろんなことに気づかされ、それを喜んでしあわせに生きるのか…。
あなたはどちらがいいですか?
今でも思い出すと笑ってしまうような出来事があるお葬式で起こりました。
町の小さな会館で、あるおじいちゃんのお葬式が営まれました。その時のことです。
ご遺族ご親族のお焼香が終わり、代表焼香へと式は進み、一般焼香になった頃、それまでおとなしくしていた幼稚園に通うお孫さんの男の子が、あまりの退屈さにしゃべり始めました。
「ねぇ、まだおわらないの?」「ねぇ、ねぇ…」
お母さんは「しぃー、もうじき終わるからね」と一生懸命男の子をなだめています。何度かそんなやりとりがあった後、ようやく式も終わりに近づきました。そして、私がお経の最後に打つ鐘を打とうとしたまさにその時、一瞬早くその男の子が式場に響きわたるような大きな声で言いました。
「カーン!!」
や、やられた…。何という絶妙なタイミング。それまで神妙な顔つきで参列されていたみなさんも、これには思わず「プッ!」と吹き出してしまい、いっぺんに緊張の糸が切れてしまいました。私は何事もなかったかのように鐘を打ち、読経を終えましたが、内心では「参ったなぁ」と苦笑いをしていました。
幼稚園に通う男の子にとっては、おじいちゃんの死というものの意味が理解できなかったのでしょうね。これはある意味しかたのないことかもしれません。
元気だったおじいちゃんが病気になり、入院し、そして命が尽きて家にもどってくる。まるでベルトコンベアーに乗った流れ作業のようです。人が死んでゆく瞬間に立ち会うことがむずかしくなってきているのが今の社会の状況です。
今から40数年前、私が6歳の時、夕ご飯を食べている最中に私の目の前で祖母が倒れ、そのまま亡くなりました。お医者さまに来ていただいた後、母が泣きながら祖母の体を湯灌していたのを覚えています。
でも今から13年前、父方の祖母が病院で亡くなった時は全然状況が違いました。偶然見舞いに行っていた時に祖母は痰をのどに詰まらせて呼吸困難になりました。私たち家族は病室から追い出され、医師が心臓マッサージや電気ショックで蘇生させようとしている様子が外からうかがえました。96歳という祖母の年齢からすれば蘇生術など施さず、静かに看取らせてほしかったと思います。
現代は「死」というものが見えません。人が死んでゆく厳粛な瞬間に立ち会うことが、いのちの大切さを本当に考えるきっかけになるはずなのに、です。そういう大切な機会を奪われてしまっていることが問題なのではないでしょうか。
おとなも子どもも「死」というものの実感がなく、本当の意味でいのちの大切さに気づいていないのだと思います。テレビをつけると目を覆い、耳をふさぎたくなるような事件ばかりが毎日のように報道されているのは案外このあたりに原因があるのかもしれません。
今から15、6年前の話です。
81歳のおばあちゃんが亡くなりました。家族や親族40人ほどのこじんまりとしたお葬式が営まれました。そのお葬式のお話です。
このおばあちゃんは、まだ57歳の時に脳梗塞で倒れ、半身が不自由になり、ほとんどベッドで寝たきりの生活になりました。
当時はまだ今のようにデイケアサービスもありません。入院するか、家族が自宅で介護するかのどちらかしか方法はありませんでした。みんなで相談した結果、自宅で介護することになりました。家族構成は結婚して独立している長男と長女、それに独身の次男の4人家族でした。そして介護は主に次男さんがすることになったのです。
一口に自宅で介護すると言っても、それはそれは大変だったろうと思います。倒れたおばあちゃん(当時はまだお母さんでしたが)は、頭ははっきりとしており言葉も自由にしゃべることができました。おばあちゃんは次男さんと二人暮らしでしたが、兄弟が助け合いながらお母さんの介護をしました。
24年間もです。普通、24年間も介護をしたおばあちゃんが亡くなると、家族は悲しみの中にもどこかホッとした気持ちが出てくるものです。それがお葬式の間に感じられるのです。ところが、このおばあちゃんのお葬式では、みんなが悲しみ、その死を心から悼んでいました。
お仏壇を安置してある隣の部屋におばあちゃんのベッドがありました。私が月参りに伺い、読経を始めると隣の部屋からベッドで寝たままのおばあちゃんが私に合わせてお経をとなえる小さな声が聞こえます。ベッドの中から手を合わせておられる、そんなおばあちゃんでした。
おばあちゃんは寝たきりなのでほとんど何もできません。でも、何もできない代りに周りの人たちに、言葉や表情で大切なものを伝えておられたようでした。きっと息子さんや娘さんたちの話をきいたり、相談事にのったり、アドバイスをしたりされていたのではないでしょうか。体は不自由でも、自由な思考と素晴らしい知恵を持っておられたのではないかと思うのです。
家族にとっておばあちゃんは、いてくださるだけで心の支えとなるような大きな存在だったのではないかと思います。
だから24年もの長いあいだ大変な介護をしても、お葬式の時、ホッとするどころかただただ悲しみの気持ちとおばあちゃんに対する感謝の思いしかなかったのだと思います。
亡くなったおばあちゃんの死を心から悼み、悲しみ、そして感謝して静かにみんなで見送るというしっとりとしたお葬式でした。
体が自由に動かなくなり、寝たきりになった時のおばあちゃんの絶望感はどんなだっただろうかと想像します。きっと何日も枕を涙で濡らし、悩み、苦しまれたのだと思います。でも、おばあちゃんはそれをのり越える知恵を持っておられました。それは元気な時にはあまり意識せずに聞いていたお釈迦さまの教えのおかげではなかったかと思います。
私たちは、たとえ寝たきりになっても、できることがあることをこのおばあちゃんから教えられます。周りの人たちに感謝の気持ちを伝えたり、喜びを与えたり…。何より人間としての生き方を身をもって示すことができるのです。
もし私が倒れて、24年間も介護される身になった時、このおばあちゃんのようになれるだろうか。みんなが私の死を心から悲しんでくれるような生き方ができるだろうか。いろいろと考えさせられるお葬式でした。
そして、心に残る本当に素晴らしいお葬式でした。
「えっ!もう一週間たったの?」
テレビのスウィッチを入れた途端、ついこのあいだ観たばかりの番組がまた放送されています。
「うっそー!どうしてこんなに日がたつのがはやいの?」
みなさんはこんなことを思ったことはありませんか。一日のはやいこと。一週間のはやいこと…。今年ももう4月になってしまいました。一年の4分の1がもう終わってしまったのです。思わず「うっそー!」って言いたくなりますね。
子どものころは、あんなに日曜日がくるのを待ち遠しく感じたのに、今ではそれこそアッというまです。
なぜなのでしょうね。うかうかしていると、今年も「気がついたら大晦日だった。」ということになりかねません。光陰矢の如し。まさにその通りです。
若くして亡くなった女性歌手、ZARDの坂井泉水さんが、ファンクラブの会報に「皆さんお元気ですか?味わい深い日々を送ってくださいね。」というメッセージを書いたそうです。そして、それが彼女の最後のメッセージになったそうです。
「味わい深い日々を送る。」
考えさせられる言葉ですね。
楽しかった一日、つらかった一日、くやしかった一日、悲しかった一日、うれしかった一日、感動した一日…。
よく考えてみれば、私たちは、いろんな一日を過ごしています。
でも、そんな一日をじっくりと味わっているでしょうか。夜、布団に入ってから、その日あった出来事を思い出して、あれこれと考えているでしょうか。
よいことにも、わるいことにも、それぞれの味わいがあります。それらを深く味わうことによって、深みのある人間、深みのある人生になっていくのではないかと思います。
少し前、世間では一つのことをまじめに深く考える人を「ネクラ」と呼んで少しバカにする風潮がありました。一方、その場その場を明るく楽しく過ごせる人を「ネアカ」と呼びもてはやしていました。
バランスも大切だとは思いますが、私は、ネアカの人よりはネクラの人の方が味わい深い一日を送っているように思います。
毎日のつみ重ねが、私たちの長い一生になるのです。ものごとをあまり深く考えず、流してしまう人生は、結局は薄っぺらな人生で終わってしまうのではないでしょうか。
深みのある人間になるために、深みのある人生にするために「味わい深い日々」を送りたいものですね。
このあいだテレビを見ていると、「定規とものさしのちがいは何?」というクイズが出されていました。
え?定規とものさしの違い…?
そんなこと、今まで考えたこともなかったのでわかりませんでした。
答えは、定規は線を引くための器具、ものさしは長さを測るための道具、だそうです。
へぇー、そうかぁ。言われてみればそうだなぁ、と思い辞書で確かめてみました。なるほどその通りの意味が書かれていました。
でも、定規にもものさしにも共通する意味もありました。それは「物事や価値などを判断する時の基準」というものです。
杓子定規に物事を判断するとか、審査員のものさしは一様ではない、などと使いますものね。判断する時の基準となるもの、それが定規であり、ものさしというものなのですね。
この辞書の説明を読んだ時、一つの詩が思い浮かびました。それは相田みつをさんという書家の詩です。
「そんかとくか人間のものさし
うそかまことか仏さまのものさし」
私たちは何をするにしても「損か得か」で物事を判断しがちです。自分のことをふりかえってみても、思いあたることがいっぱいです。何かをしようとする時、たとえそれが良いことであっても、無意識のうちにその見返りを期待してのことであったり、他人の評価を気にしてのことであったり…。そうじゃありません?
それに対して、仏さまのものさしは「偽か真」です。純粋で厳しいものですね。はたして自分に「まこと」の心なんてあるのかなぁと考えた時、恥ずかしい自分でしかないことに気づきます。
本堂の仏さまの前に座ると、自分の心の中をすべて見通されているようで思わず身が縮こまります。それがよく言われる「仏さまの智慧の光に照らされる」ということなのでしょう。
そんかとくかでしか物事を判断できていない私です。時々は仏さまの前に座って、静かに自分を見つめなおす時間が必要なようです。
次の□の中に適当な漢字を入れて熟語を作りなさい。
「□肉□食」
小学生の国語のテストに出た問題です。あなたはできましたか?
まさか「焼肉定食」なんてね。…おいしそうです、お腹がすいてきました。
正解はもちろん「弱肉強食」です。
あなたは弱肉強食という言葉に、どんなイメージを持っておられますか。
アフリカの大草原でライオンがシマウマを追いかけ、捕まえて食べている情景が目に浮かびましたか。
草食動物のシマウマが肉食動物のライオンに食べられてしまうのはかわいそうですね。強いものが自分の食欲を満たすために弱いものをえじきにする。自然界のきびしい掟です。そのことを指して「弱肉強食」といいます。
人間の社会でも同じことが起こっています。たとえば力のある会社が小さな会社を吸収合併してしまうことなんかそうですね。力や権力のある者が弱い立場の人をくいものにしたりする…。人間社会の厳しい現実です。ただし、人間の場合は食欲だけじゃなく、金欲、物欲、権力欲、名誉欲などいろんな欲がいっぱいあって複雑です。
でも、動物の世界と人間の世界とでは同じ弱肉強食でも決定的な違いがあるのです。それは何だと思われますか。考えてみて下さい。
・・・・考えてみてくださいましたか。それでは答えです。
人間は欲しいものを手に入れても満足するのは一瞬のことで、次にまた違うものが欲しくなるのです。その点、動物は違います。ライオンが空腹を満たしてお腹がいっぱいになると、たとえ目の前をおいしそうな(?)シマウマが歩いていたとしても襲ったりはしないのです。シマウマの方でも襲われる心配のないことを知っているので満腹したライオンの前を悠々と歩いています。
つまり人間社会の弱肉強食はきりがないのに対して、動物の世界の弱肉強食は、それが必要な時にだけ行われるのです。これが大きな違いです。
さて、そこでです。お腹がいっぱいになったら満足するライオンと、欲しいものを手に入れたら、すぐにまた次のものが欲しくなる人間。どちらがしあわせでしょう。
お釈迦さまは、もっと欲しい、もっと欲しいと、その欲望にきりがないものを餓鬼とおっしゃいました。もっとお金が欲しい、もっと豊かになりたい…と限りのない欲望を追い求めた結果が、今の環境破壊を引き起し、思いやりというものをどこかへ置き忘れてしまったようなぎくしゃくした社会を作ってしまったのではないでしょうか。
「少欲知足(しょうよくちそく)」欲少なく足るを知る。お腹がいっぱいになったらそれで満足するライオンのように、欲望をコントロールする知恵を教えてくださったのがお釈迦さまです。
「足るを知る」こと。これで満足という気持ち。しあわせになるために大切なのはこの気持ちです。
お釈迦さまによって2千5百年も昔に説かれた教えが、今こそ見直されるべき時なのではないでしょうか。
「今年の世相を漢字一文字で表すと?」という毎年恒例のイベントで、去年選ばれたのは「偽」という文字でしたね
偽の意味を辞書でみると、「いつわる」「うわべだけのみせかけ」「うそ」とあります。
たしかに昨年は、いろいろな偽装問題が発覚した年でした。偽という文字が選ばれたことにも、なるほどとうなずくばかりです。
ところで、この偽という字、人偏に為と書きますね。つまり「人のため」と書いて、意味は「うそ」なんですよね。なんだか深〜いモノを感じてしまいます。
私たちはよく「誰かのために。」と言っては、いろいろなことをします。
「将来、あなたが好きな職業につけるように、あなたのためを思って勉強しなさいって言っているのよ。」と子どもを叱っているお母さん。
じつは将来、老後のめんどうを見てもらうために、しっかりお金を稼げる仕事に就いてもらいたいと思っていたりして…。
いつも笑顔で、誰にでも親切にしている立派な人。
じつは人から感謝されたい、いい人だと褒められたい気持ちでいっぱいだったりして…。
こんなことを考えている私は、そうとうひねくれた人間かもしれませんね。
でも案外、人はだれでもそういうものかもしれません。
私は電車の中で座っている時、前にお年寄りが立たれたら、できるだけ席を譲るようにしています。でもその時「ありがとうございます」の一言がもらえなかったら、なんとなく損をしたような気になってしまうのが本当のところです。
心の中で「寝たふりでもしとけばよかったなぁ。せっかく親切にしてあげたのに。」なんて思ってしまいます。
結局、席を譲るという行為に対して感謝の言葉をもらって、自分がいい気持ちになりたいのでしょうね。そして、いい人だと思われたいのでしょうね。
ということは、人のために親切をしているのではなくて、自分のためにしているのですね。これは偽物の親切です。本当に人のためを思うなら、感謝されようが、されまいが、淡々とすればよいことなのですから。
「のにと思うとグチが出る」という言葉を聞いたことがあります。
「あれだけしてやったのに」「目をかけてやったのに」…。
あとに続くのはグチばかりです。そうなると、せっかく今までしてきたことが台無しになってしまいます。いいことをしたら、そのあとはそのことを忘れてしまいましょう。誰かのためにやっていると思わないで、自分がしたいからしているのだと考えましょう。それが本物です。
人のためと書いて「偽」。考えさせられる文字です。
それにしても、暗いニュースばかりが多い昨今。今年の年末にはどんな漢字が選ばれるのでしょうね。
「輝」とか「歓」とか「翔」みたいに、明るく希望を感じる文字だったらいいですね。
いきなり余談で恐縮ですが、ままごとを漢字で書くと「飯事」だということを知っておられました?
恥ずかしながら私は今のいままで、てっきり「ママごと」だと思い込んでいました。つまり「お母さんごっこ」ですね。お母さんを英語でいうとママですから…。まさかご飯をさす「まま」とは思いませんでした。いや〜、勉強になりました。
ま、それはさておき「現代ままごと遊び事情」についてです。
先日、テレビを見ていましたら、今の子どもたちの「ままごと遊び」が話題になっていたのですが、内容を聞いてひっくり返りました。
私も幼い頃に(40数年前です)、近所のお姉ちゃんや友だちと「ままごと」をして遊びました。ふかしたサツマイモをお姉ちゃんが持ってきてくれて、それをお母さん役のお姉ちゃんが、おもちゃの包丁とまな板の上でこまかく切って、小さなお皿に盛ってご飯がわりにして食べるのが楽しみでした。誰がお母さんの役をやるか、お父さん役は誰か。私は、たいてい子どもの役だったと思います。ままごと遊びの主役はやっぱりお母さんですから、お母さん役の奪い合いで、結局ジャンケンをして決めるのが常だったように記憶しています。
ところがです。今、幼稚園でままごと遊びをすると、一番人気がある役は何だと思います?
なんと、ペットになりたいという子どもが一番多い!
その理由は、みんなに可愛がってもらえるから、ということらしいです。
そして、一番人気がなくて、なり手がないのがお母さんですって。誰もなりたがらないので、しかたなく先生が「ごめんね、○○ちゃん。今日はお母さんになってくれる?」と子どもに頼むのだそうです。そうしないと、ままごと遊びもできないとのことでした。
そして、お母さん役になった子は、他の子どもに「お絵描きをしなさい。はやくご飯を食べなさい。はやくお風呂にはいってちょうだい。」と命令ばっかりしているそうです。
今の子どもたちの目には、「お母さん」というのは、どんな時でもやさしくつつみこんでくれる温かな存在ではなくて、命令する人、叱る人というふうに映っているようですね。そして、家庭の中で無条件に愛されるのはペットだけだと感じているのです。
なんだか背筋が寒くなるような気がしました。子どもは大人のことをよく見ています。ですからきっとこれが今の日本の家庭のすがたなのでしょう。
でも、何かがおかしいですね。ペットになりたがる子どもたち…。
お母さんだけではありません。お父さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんも、世の中すべての人が忘れかけているお釈迦さまの教えがあります。
それは「和顔愛語」。
「わげんあいご」と読みます。ひとに対して、笑顔で心のこもった言葉をかけることです。
あなたは笑顔で挨拶していますか。相手を思いやる言葉をかけていますか。
誰かと話すとき、意識して笑顔でゆっくりとしゃべってみてください。それだけで、お互いになんとなく気持ちがホッとあたたかくなりますよ。
「忙しい」が口癖になっていませんか。「早く、早く。」とイライラしていませんか。そんな心の余裕のなさが、ギスギスした人間関係を作っているのではないでしょうか。
ペットになりたい、なんて悲し過ぎます。ままごと遊びで、ふたたびお母さん役が奪い合いになるような世の中になってほしいですね。
ゆっくりにっこり笑顔で話をしてみませんか!
最近の若者の中には、このことわざを「情けをかけて困っている人の手助けをしてやると、困っていればいつか誰かが助けてくれるんだという依存心が生じて、その人の自立のために良くない。」と解釈している人が多いと聞きます。
時代が変われば、ものの考え方も変わるんだなぁと感心しました。…いや、感心してばかりではいられません。今や日本は憂慮すべき事態になりつつあると言うべきでしょう。
もちろん、このことわざの本来の意味は「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。」ということなのはご存じでしょう。
困っている人に親切にしておけば、その親切にされた人が今度は別の困っている人に親切にする、そしてその人がまた…というふうに親切の輪ができて、いつか自分が困った時に誰かが助けてくれるかもしれないという考え方です。
じつは私には、アメリカ人の友人がいます。この友人にこのことわざを教えた時のことです。アメリカの友人いわく「どうしてめぐりめぐって自分によい報いが返って来ると保証されるのか。途中で誰かが人に親切にするのをやめるかもしれないじゃないか。」と言うのです。つまり、助けてやった人が、次に困っている人を助けるとは限らないじゃないかと言うのです。
そこでハタと気がつきました。これは文化の違いなのだと。
「情けは人のためならず」ということわざは、根底にお釈迦さまの教えがあるのです。それは「あらゆるものは、他のあらゆるものに支えられて存在しているのである。」ということです。
たとえば、私が今ここに存在しているのは、両親が結ばれた結果ですね。そして生きているのは、私の血となり肉となってくれる他の生き物のおかげです。着ている服も会った事もない誰かが作ってくれたものです。水道の水、電気、ガス、ドライブに行く時に使うクルマ。すべて私の知らない誰かが作って、それを運んでくれる人、売ってくれる人…、知らないうちに、目には見えない多くの人の「おかげ」をこうむっているのです。
虫を捕ったり、魚をとる時に使う「網」を思い浮かべてみてください。細い太いの違いはありますが「網」というのは紐を編んで造られたものです。そして編み目があります。私たちの存在というのは、ちょうどその網の「結び目」にあたるというのが、仏教の考え方です。
自分のまわりの結び目がなかったら「網」としての機能は果たしません。それぞれの結び目が、それぞれつながり合ってはじめて「網」として成り立っているのです。それが仏教の世界観です。
一方、欧米などのキリスト教の神さまは「創造主」なんですね。この世のあらゆるものを造った大いなる神です。ですから造られた私たち人間は「神さまのめぐみにより」とは言っても、目に見えないあらゆるもののおかげで生かされているという考え方はしないのです。
これは、良い悪いの問題ではありません。文化の違い、思想の違いだからしかたがありません。
ただ私は、日本にはお釈迦さまの教えにもとづく「情けは人のためならず」という、うるわしい考え方がせっかくあるのに、それを大切にしない手はないと思うのです。
このことわざを「その人のためにならない」と考えている人に私は思いっきりツッコミをいれてやりたいと思います。
「欧米かッ!!」
私の小さい頃には、こんなふうに叱られることが多かったと思います。
ちなみに私は現在48歳ですが、おさなごころに「うわー、こわい!」と思ったのを思い出します。「ウソはもう絶対つかないでおこう」と思いました。…こりもせず何度も嘘はつきましたけどね。
でも、その言葉によって心の奥底にウソをつくのは悪いことだという意識が植えつけられたと思います。
昔はそうやって、日常生活の中に自然に仏教の考え方や教えが溶け込んでいました。その結果として、日本は世界で一番治安のいい国、礼儀正しい国だという評価ができあがったのだと思います。
残念ながら、今は決して治安がいいとは言えない国になってしまいましたが…。
なぜそうなってしまったのか、ひとつ考えてみましょう。
あなたはウソをついて叱られた時「エンマさまに舌を抜かれるゾ」って言われたことがありますか?
または、子どもを叱る時に、そんなふうに言ったことがありますか?
今、日本の国は「つかまらなければ悪い事をしてもいい」と考える人たちが増えているのではないでしょうか。人をだまして得をする、というような。
「オレ、オレ詐欺」に始まり「振り込め詐欺」「横領」「公金着服」など数え上げればきりがありません。とくに若者が若者をだます「キャッチセールス」などを見ると、今の若者には良心というものがないのかと嘆きたくなります。
きっとそこには「エンマさまに舌を抜かれる」なんて思想はかけらもないのでしょうね。だってそんなふうに叱られたことがない若者がほとんどなのですから。
「そんな非科学的なことは言えない。」というのは大人の理屈です。幼稚園くらいの子どもは、実に素直に大人の言うことを聞いてくれますよ。
私がひそかに師と仰いでいる先生が「言葉がなくなれば、その思想もなくなる。」とおっしゃっていました。また「その思想を復活させたければ、その言葉を使うようにすればよい。」とも。
子どもの頃に刷り込まれた考えというものは、大人になってもひょっとした拍子に現れるものです。ウソをついて人をだまそうとたくらんだ時、チクッと良心の痛みを感じる大人になるのです。
そういう人が増えれば日本の社会も今よりは良くなるのではないでしょうか。
みなさん、子どもがウソをついた時「エンマさまに舌を抜かれるゾ!」って叱ってください。そうして育てられた子どもが大きくなった時、今よりは良い社会になっているかもしれません。何十年もかかる壮大なプロジェクトではありますが…。